「あきらめない。最後まで走り続けますよ」SASUKEに賭けた男、山田勝己の覚悟と熱魂

インタビュー・文:葉月けめこ 写真:増元幸司


還暦インタビュー・山田 勝己

2025年9月某日、新宿で開催されていた『TBS SPORTS FES』の『SASUKE』ブースに、その人はいた。
1997年からつづくTBSのスポーツ・エンターテインメント番組『SASUKE』に、第1回から出場。紆余曲折はあるものの、還暦を迎える齢になっても現役を貫いている“ミスターSASUKE”こと、山田勝己である。

ブースには、子ども用につくられた小型のスパイダーウォークやそり立つ壁が設置されており、山田は各エリアに挑む子どもたちを時にやさしく指導したり、チャレンジを称えたりしながら、おだやかに見守っていた。もちろん大人の見学者も多く、話しかけられれば笑顔で応えるし、写真撮影を求められれば気軽に応じた。小さなSASUKEセットを背景に立つ、筋骨隆々としたその姿は、ミスターSASUKEそのものだった。

テレビマンの直感が生んだ、番組の象徴

山田とSASUKEの出会いは1996年。TBS『筋肉番付』内の、“3分間ひたすら腕立て伏せをする”コーナー『クイックマッスル全日本選手権』に出場したことに遡る。当時ソフトボールをやっていたものの、練習中のケガにより腹筋と腕立て伏せしかできなくなった山田は、「腕立て伏せならできそうだ」とオーディションに挑んだ。
――という話になったとき、インタビュー会場となった上記フェス控室にたまたま居合わせた、当時のクイックマッスル・コーナー・ディレクター(現SASUKE総合演出)乾雅人氏が声をかけてくれた。

乾「あのときの山田さん、危うく失格になりかけたんですよ」
山田「そうそう、そうでしたね」

どうやら山田の腕立て伏せのフォームが、基準を満たしていなかった(体を上げたとき、腕がちゃんと伸びていなかった)らしく、『失格』印を押されかけていたという。そこに、「いや、待ってくれ」と、割って入ったのが乾氏だったのだ。

乾「腕立て伏せ自体はできているし、こんな真っ黒に陽焼けしたムキムキでおもしろいおっさん(当時31歳)を落としたらつまらないじゃないか、と。なのでオーディションは通すから、本番までにしっかりフォームを直してきてくれって言って帰したんです」

乾氏の独断で渡された合格切符を手に、山田は本番をクリア。さらに地方予選を生き残り、見事全国大会準優勝を果たしたのだった。
それにしても、乾氏の「この人はおもしろい!」というテレビマン的直感がなければ、“ミスターSASUKE”は生まれなかったかもしれないと考えると、この出会いはSASUKEにとってもファンにとっても、もちろん山田にとっても、非常に大きなターニングポイントであったといえそうだ。

あれだけやっても完全制覇できんのか

“クイックマッスル全国大会準優勝”を引っ提げて、山田は『筋肉番付スペシャル』の1企画として1997年に開催された『SASUKE第1回大会』に出場した。

「『アスレチック競争みたいな大会をやるので出てみないか』とテレビ局から連絡をもらい、わりと軽い気持ちで出場したのを覚えています。2ndで敗退したけど、あのときは、まさかこんなに長くSASUKEに関わるとは思ってもいませんでした」

そう振り返る山田の心に火がついたのは、翌(1998)年の第2回大会だった。

「1回目は2ndステージの5連ハンマーで落ちて。2回目も2ndのスパイダーウォークで落ちた。言うたら同じ相手(2nd )に2度やられたということですから。ああ、悔しい!腹たつ!と、燃え上がりました」

次はぜったいクリアしてやる! そう決意した山田は、スパイダーウォークなど、SASUKEを模したセットを自宅敷地の一角に造った。これが、今ではよく見られるようになった“SASUKE自宅セット”第1号である。
しかしながら、山田が目指したのは2ndクリアではなく完全制覇だ。ファイナル・ステージ(15mの綱のぼり)を見据えたトレーニングもしなければならないと、ロープをのぼる特訓にも力を入れた。そして気づいたのが……「体重が軽いほうが絶対有利」ということだった。
最強の負けず嫌いは中途半端を忌み嫌う。やるならとことん!である。なにがなんでも勝ちたい山田は、約13kgの減量を果たし、第3回大会に出場。努力の甲斐あってファイナルまで進んだものの、綱のぼり制覇まであとわずか30cmに迫ったところで、無念のタイムアップとなったのだった。

「悔しさしかなかった。減量にしても何にしても、これ以上できへんっていうぐらいまでやってたんで。食べないからか眠れない日もつづいて、精神的にもけっこうキツイ状態で挑んだ大会でした。なのにこれか……あれだけやっても完全制覇できんのか、と」

あと一歩、いや半歩のところで届かなかった頂を前に、ロープをするすると下降してきた山田は、しばらく顔をあげられなかった。当時実況を担当していた古舘伊知郎氏の「山田さんをそこまで駆り立てる、その動機は?」との問いに、静かに「負けたくない。ただそれだけです」と答えた山田は、このあとさらに練習量を増やしてくのだった。

還暦インタビュー・山田 勝己

トレーニングのしすぎでリストラ⁈

こうして山田はSASUKEに、つまりは己の肉体の“限界を超える”ことに没頭していった。『仕事の合間にもトレーニングに勤しむようになり、リストラされた』とはファンの間では有名な逸話だが、実際は“仕事を早めに終わらせて作った時間”の中でのトレーニングだったと、補足しておきたい。

「仕事が早く終わったからと、お茶を飲みに行ったり、家で寝てたり、パチンコに行ったりしている人がいるなかで、俺はトレーニングに行っていたということなんですけどね。それが会社にバレて、1回2回……3回目で『クビ』だと言われました」

2000年春のこと。これを機に山田は妻の実家の鉄工所に転職する。アルバイトからスタートし、2017年には社長に就任した。住まいも隣接しているため、朝食を食べたらすぐに仕事というハードな日々をこなしながらのSASUKE道であることも加えて記しておこう。
いずれにしても、トレーニングと仕事の両立がたいへんだったことは確か。

「転職してしばらくは仕事に慣れるのに時間がかかったり、でも、仕事のせいでトレーニングができないというのもいやだったので、夜中の2時ぐらいまでトレーニングしていたり。他の選手より多く練習しないと勝てない、と、その一心で」

1日700回の懸垂、さらに50kgの重りをつけての懸垂、数十キロの荷物を背負って坂道を駆けあがるなど……限界を超えたハードワークに身体は悲鳴をあげていた。

俺にはSASUKEしかないんですよ

山田が自らの身体の異変に気付いたのは、第6回大会終了後。体調が悪い日がつづいたため、受診した病院の医師はこう言った。

「この症状で来る人は、年に1人いるかいないか」

病名はなかった。“内臓の動きが止まる”症状で、端的に言えば『内臓疾患』ということらしい。

「心身の疲労やストレスが積み重なって、これ以上無理させたらあかんと体が代謝を落として、動かさないようにするらしいんです。自分を守るために、身体が自ら代謝を止めるというか、つまりは臓器が機能障害を起こしている状態でした」

医師から「どうやってここまで我慢したんや」と問われ、「痛み止めと、1日5本ぐらい栄養ドリンクを飲んで耐えてました」と、答えた山田。
「そりゃあかんわ!」
即座にドクターストップがかかった。このまま過度な運動をつづけると慢性化するし、そうなると、突然死もありえる、と。

「第7回大会出場は絶望的になりました。それでも、午前中だけ仕事をして、午後から翌朝まで寝るという、ほぼ寝たきりの暮らしをするうちに、だんだん回復してきたんです」

もともと屈強な身体である。半年の休養でみるみる力がみなぎってきたのだが、それはそれでやっかいというか、山田の“あきらめない”力が再燃した。

「身体がよくなると、今度はSASUKEに出たくてたまらない。で、医師と家族に『これで最後にするので、もう1回だけ出場させてくれ』と懇願したんです」

医師からOKが出たのは大会の1週間前。いっさいトレーニングをしないままの出場となった。

「結果は……初めての1stステージでのリタイアとなりました」

つづく第8回大会は「これでほんとうの最後にする」と、引退を決意して臨んだ。だが、やはりSASUKEから離れることはできず、第9回にも出場。第10回大会では、あまりにも有名な「俺にはSASUKEしかないんですよ」という名言を残している。
その後も幾度かの引退決意や欠場はあったが、ひさびさに番組のレジェンドたちが揃った第28回大会(2012年)を最後に引退。山田を慕う若手選手たちと共に“完全制覇”を目指すべく、『山田軍団 黒虎』を結成し、後進の指導にあたることになった。

還暦インタビュー・山田 勝己

毎回怖くて、眠れないぐらい緊張する

山田が再びステージに立ったのは2020年の第38回大会だった。翌2021年には“引退することを引退する”、つまり“生涯現役”宣言をし、現在に至る。
鍛えているとはいえ、60歳でSASUKEに挑むのはたいへんでは? と問うと、「いやあ、キツいっすよ!」と即答。しかし、SASUKE熱は一向に冷めないのだという。

「苦しいことはいっぱいあるけど、気持ちが冷めたことは一度もないですね。次こそは!っていう挑戦心がつづいていく。長らく1stもクリアできてないので、叩かれることも多いし、毎回怖くて、眠れないぐらい緊張するし、次もまたダメなんやろなって不安になったりしますけど……。でもやっぱり、サスケが好きだっていうのと、亡くなった親父に『勝った!やっと勝ったで!』と報告したい。そんな気持ちが俺を熱くしてくれるんです」

なぜそこまで情熱を燃やしつづけられるのか……

「諦めないことですね。年をとれば身体のどこかが痛むのはあたりまえ、そう思ってます」

たとえばどこかが痛むことがあったとしても、「坂道を走ったら治る」と山田は言う。
SASUKEファンの間では有名な、傾斜18度、150mほどの坂道、通称『黒虎坂』である。

「どんな状況であれ、ほぼ毎日走ってます。今年の大会まであとどれぐらい練習できるかわかりませんけど、このまま走り続けたら倒れるかも……となっても、それでもあきらめない。最後まで走り続けますよ」

ちなみに、山田勝己に“完全制覇”はまだない。しかしだからこそ、熱魂の挑戦をつづけられるのかもしれない。
2028年には、『SASUKE』を基に考案された障害物レースを新たに加えた近代五種が、ロサンゼルス五輪で実施される。今や世界の『SASUKE』となった本番組の2夜連続放送まであと少し。2025年聖夜(12月24、25日)に、我らがミスターSASUKEがどんな勇姿を見せてくれるのか。この目に、胸に、しかと焼き付けたい。

還暦インタビュー・山田 勝己
Profile
山田 勝己(やまだ かつみ)

1965年10月22日生まれ、兵庫県出身。1996年にTBS『クイックマッスル全国選手権』準優勝を果たし、翌年行われた『SASUKE』第1回大会から出場。第3回大会、第6回大会、第10回大会で最優秀成績を記録した。番組の象徴的存在として“ミスターSASUKE”と呼ばれる。現在は鉄工所社長を務めつつ、自ら率いる『山田軍団・黒虎』メンバーと共に参戦中。

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